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明治の古い地図

昔の地図と文:「帯広市史」より


河西郡帯広村市街予定地平面図  -明治28年ごろ-

明治28年河西郡帯広村市街予定図

帯広市街予定地平面図 - 明治28年ごろのもの、推定 - (注)音更町木野市街の一部が市街予定図に組み入れられている。 十勝川をはさんだ対岸の木野地区も市街化しようとする構想であった。  

帯広市街明細地図  -明治37年-

明治37年帯広市街明細地図 大正3年(1914年)末の帯広町外四村(伏古村・売買村・上帯広村・幸震村)の戸数は約3,000戸であり、そのうち農業戸数は約1,100戸、官公吏および教員は約450戸、商業約440戸、労働約410戸、工業約130戸であった。商業戸数については、明治39年(1906年)に約260戸であったのが、前述したように大正3年末には約440戸にもなり漸増ぶりが目立っている。  
 

晩成社入植直前のオベリベリアイヌの家所在地推定図   -明治15~16年-

晩成社入植直前のオベリベリアイヌの家所在地推定図 明治16年 推定図からは、今の水公園から東四条南五・六丁目付近にかけて、アイヌが十数戸約五十人が居住していたことがわかる。また、近くには国分一家らがその家の位置は明確でないが住んでいた。 このことは、鈴木銃太郎日誌からも明らかで、厳しい自然条件の辺境の地で単身越冬生活を送った銃太郎の孤独な生活の様子が偲ばれる。そうした状況にあって、彼を励まし慰めたのは大川宇八郎や近くに住んでいた国分久吉一家および、アイヌの人たちであった。モチャロク、トレツ、エトラス、アイランケ、テックイボ、コサンケアン、サンケイタキ、ウナチャロ、チャンラウエ、タカサレなど、後に晩成社と深い関わりを持つ多くのアイヌの人たちが出入りして、十勝の生活に慣れぬ銃太郎を助けた。 アイヌの人たちは、銃太郎に「ニシパ」(旦那の意・和人の男性に対する敬称)という愛称をおくって敬意を表した。  
 

最初のオベリベリの街  -明治27年-

最初のオベリベリの街 明治27年 明治25年(1892年)、今の帯広柏葉高等学校の南側辺りに郵便局が設置され、また晩成社事務所の南側に、その草小屋を借りて三等測候所が設けられた。さらに、北海道集治監釧路分監によって大津街道(大津、芽室間)の開削が始まるとともに、同十勝分監の建設敷地が緑ヶ丘に決まった。また、26年には、その十勝分監を建設するために今の柏葉高校の東側辺りに釧路分監帯広外役所が設置された。(このころ、木野には音更出張所が設けられている。) 同年6月には、河西外二郡各村戸長役場が、大津村にあった十勝外四郡戸長役場から分離して現在の柏葉高校敷地の西南隅辺り(下帯広村)に置かれることになり、翌年二月に開庁した(28年同所に釧路警察署下帯広分署開庁)。この戸長役場は十勝内陸部では最初の戸長役場であり、帯広最初の行政機関であった。 26年には、帯広の基点付近に駅てい所が開設(北海道庁布令全書による)されている。 そのころ、帯広外役所を拠点にして十勝分監の建設に総力をあげることになり、下帯広村はにわかに活況を呈し、現在の水光園付近から柏葉高校の方にかけて帯広の元村、河港の街が発達したが、それは行政的都市誕生への胎動でもあった。      

昔の地図と文:「帯広市史」より

     
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